牛尾洋人代表監督(デフビーチバレー) 選手、障がい者スポーツにかける想い

2021年7月23日。あと16日後にせまった2020年東京オリンピック、パラリンピック。未だに様々な意見が飛び交い選手も国民も戸惑いが隠せない今日この頃であるが、来年、2022年ブラジルでもうひとつのオリンピックが開催されることをご存じだろうか。

聴覚障がい者のためのスポーツの祭典「デフリンピック」である。

このデフリンピックも実は今年の開催予定が新型コロナウイルスの影響で2022年に延期されたのだが、日本ではほとんど話題に上がらなかった。

さらにさらに、実はこのブラジル大会の次、2025年大会の日本招致に向けた活動が国内で起こっているのだ。4年に1度の世界大会というオリンピックと同じ立ち位置にあるはずなのに耳馴染みのないデフリンピック。それもそのはず、日本でのデフリンピックの認知度は11.2%*¹。そんなマイナーな世界でも第一線で活動する人たちはいる。

今回インタビューさせていただいたのはこのデフリンピック競技のひとつ、デフビーチバレーボール日本代表の監督であり、日本デフビーチバレーボール協会の代表を務める牛尾洋人さんだ。

「やっぱりプレイヤーとしての道を諦めきれなくて」

中高大とバレーボールに打ち込んでいた牛尾さん。大学を出てからも選手として続けるつもりだったが、卒業後は就職した会社の9人制女子バレーの実業団チームのコーチをしていた。

「9人制のプレー経験はなかったんですが、コーチといってもひたすら球出しをするアシスタントのような役割でした。でも僕にとって幸運だったのは、その実業団が全国でもトップクラスのすごく強いチームだったこと。そんな役割でも練習に参加することで毎日刺激をもらえたんです。それでやっぱり自分もプレイヤーに戻りたいと思いました。」

しかし日本のバレーボール界はトライアウトの機会が少なく、ブランクのある選手が第一線の舞台に立つのはなかなか難しいと判断。でも自分は真剣に、プロの世界で戦ってみたい。当時27歳の牛尾さんはビーチバレーへのチャレンジを決意する。

本格的にビーチバレーの道に進む1年程前から、牛尾さんは広島で仕事をしながらビーチバレーを始める。

「ビーチバレーはやったことはなかったですが、大学でもバレーはそこそこやれていたという自負もあって、初めて参加させてもらうチームの練習を見た時はついていける、渡り合える自信があったんです。でも実際やってみたら全然敵わなくて。悔しいという気持ちと久しぶりに自分がプレーしているという嬉しさがありましたね」。

サラリーマンを辞めて、本格的にビーチバレー選手として活動を始めた牛尾さん。徐々に実力を付けていき日本のツアーだけでなく海外でも活動するような選手になっていく中で、普及活動にも力を入れるようになる。

「30代中盤から後半にかけて選手として上位を目指すとともに、“今もまだまだマイナースポーツの立ち位置にあるビーチバレー界になにか貢献できないか”と、ビーチバレーに恩返しをしたいという気持ちが芽生えました。」

当時活動拠点にしていた関西地区でビーチバレーボール大会を主催、こうした普及活動の一案として「障がい者スポーツとの交流」が上がり、調べていく中で出会ったのがデフビーチバレーだった。

当時牛尾さんは30代後半に差しかかっており、現役引退は考えていたが、コーチ業に興味がなく、監督経験もなかったため、デフバレーの協会の方からの日本代表の指導者になってほしいという依頼は何度も断ったのだと言う。しかしデフビーチ選手兼責任者の平井さん(現日本デフビーチバレーボール協会理事)からの熱烈なラブコールを受け、一度練習を見に行くことに。

「正直あまり上手ではなかった、でも音のない中で、一生懸命、表情豊かに楽しそうにプレーする選手たちを見て、なにか協力したいと思いました」。

  

元々障がい者に対する意識が高かったわけではなかったが、牛尾さんの姉が手話を勉強していたこと、昔牛尾さんがお世話になっていた選手が定期的にデフビーチの指導をしていたことなど、少なからずなにかしらの縁を感じながら自分が経験したことのない、経験することの出来ないデフビーチバレーという世界での監督業をスタートさせていった。

聴覚障がいはコミュニケーションの障がい

もちろんろう者ではない牛尾さんがデフビーチバレーをプレーしたことがないのは当然。経験したことのないスポーツの指導、しかも日本代表レベルである。そんなことが出来るのかと疑問に思ったのだが、デフビーチバレーは、基本的にルールは全て通常のビーチバレーと変わらないのだという。

「耳が聞こえないのでコミュニケーションに関してはとても気を遣っています。できるだけ手話通訳者をつけたり、ゆっくり話したり、選手の話も聞き取れる(理解できる)まで何度も聞く姿勢を意識する。地元行政の手話講座にも通いました。とにかく選手たちがコミュニケーションにおいて萎縮しないようにということは心掛けています。三半規管が弱かったり、バランス感覚も繊細なところはあります。でもそれ以外、例えばフィジカルで障がいが関係ない部分に関しては厳しく指導しています。日本代表だという自覚を持ってほしいので障がいによるハンディキャップの部分以外では特別扱いしないようにしています」。

過去にアメリカではろう者のオリンピック選手もいたという。

「デフリンピックで頂点を目指すのはもちろんですが、僕はろう者の中からオリンピック選手が出るようなサポートをしたいとも思っています。僕がろう者の立場になることは出来ませんが、ろう者の選手の意識をトップアスリート、オリンピック選手のマインドに引き上げるサポートは出来ると思っています」。

外国人と接している感覚、手話は一種の外国語

「障がい者だと思うから、壁を作ってしまったり、変な遠慮が生まれたりしてしまうと思うんです。だから僕は彼らを手話という外国語を話す外国人という感覚で捉えたりもします。そう考えれば日本語だけしか話せない僕より、日本語と手話の二か国語を扱える彼らの方がすごいと思います。

「とにかく過剰な特別扱いはしないですね」と牛尾さんは飄々と語る。

「健常者にだって生活に困っている人っていくらでもいるじゃないですか。性格もいろいろ。障がい者にだって自分の障がいを自虐にしてボケる人もいます。でももちろん私たちが気を遣うように触れてほしくない人もいる。同じ人でも格好つけたいから助けてほしくないという状況もあれば、疲れているから助けてほしいという状況もある。結局障がいがあるかないかではなく1人の人間として付き合っていくだけです」。

「健常者と接するときに僕たちが欲しいのは『お涙ちょうだい』じゃないんです」。

私たちmuchuの活動にも積極的に協力し、子どもたちにデフ選手とのバレーボール体験や交流の場を提供してくださっている牛尾さん。こうした活動は選手にとってもとてもいい機会だと言う。

「子どもたちは大人と違って障がいに対する壁が低いです。障がいのあるなしに関わらず1人の人として接してくれる。障がいがあってもこんなにバレーが上手なんだよというところも見てほしいし、逆に見た目がみんなと変わらない人でも障がいを持っている人がいるということも知っておいてほしい。手話に関しても覚えないと、という義務感などではなく、手話って楽しいよ、と教えられる」。

障がい者理解という堅苦しい枠組みに入れてしまう前に幼少期から実際に触れあうことで、「なんだか自分と違う」と障がいを「個性」として受け入れられるようになる。それがこれからの、本当のバリアフリーに繋がるのかもしれない。

  

「障がい者は与えてもらうだけの人じゃない」

「加えて、子どもたちの前に立つことで選手たちも代表という意識、自覚が持てる。みんながみんなそうではないですが、障がい者の中には困ったら助けてもらえばいいや、と思ってしまっている方もいます。実際私たちも、「障がい者=助けなければ」と思っているのではないでしょうか?障がいがあってもいつも与えられるだけの立場ではなく、勇気を与えたり、誰もが憧れる存在になれるんだとわかってほしい。実際そんな障がい者と沢山接してきました。だから僕が教えるのではなくて選手が中心になって教えることができる機会、そして注目される場に立たせて頂けることはとてもありがたいです」。

「大事なのは環境づくり」

「もちろんやるからには結果を残したいですから指導も真剣ですが、力を入れたいのは環境づくり、関係づくりですね」。

今、牛尾さんが代表を務めている日本デフビーチバレーボール協会は大分に本部を置いている。

この大分という地は『障がい者スポーツ発祥の地』と呼ばれ、特に別府市は障がい者雇用にも積極的で、町にもバリアフリー設備が多く見られる。健常者、障がい者の別なく参加できる障がい者スポーツ体験会などの機会も多いと言う。

「町を歩いていても、他の地域より車いすの方が1人で行動している場面をよく見かけます。聴覚障がい者へのバリアフリーに関しては特に目立ったなにかがあるわけではないですが、市民の意識に比較的偏見が少なく、壁が低いということで、大分に活動拠点を置いています。メディアにも取り上げてもらいやすいので、この大分という地から徐々に全国にそして世界に発信していきたいと考えています」。

牛尾さんはmuchuを通した健常者の児童たちへの講演や体験教室とは別に、ろう学校とも交流している。

「僕はビーチバレーをしてきたので、デフビーチの普及活動をしていますが、どんなスポーツでもいいので聴覚障がい者の方達がスポーツに慣れ親しめるような環境を作りたいと思っています。ろう学校に通っていると手話や読唇法など生きるための術を学ぶことに重きを置かれるので、運動は後まわしになってしまうという事を聞いたことがあります。スポーツとの出会いが遅かったり、触れ合う機会、時間が少なかったりするんですね。まず体を動かすことの楽しさを知ってほしい、延いては競技性を求めるようなレベルまで、いろんな選択肢を増やせるお手伝いが出来ればと思っています。

学校外でも聴覚障がいがある子どもたち向けのイベントをしたいとも考えている。

聴覚に限らず、障がい児は健常者に比べて『外に出かける』という機会が少ない。スポーツを通して能動的に『どこかに出向く、参加する』という経験をすること、彼らが『安全に遊びに行ける場所がある』こともとても大事な環境づくりなのだ。

今年度からはあるスポーツ振興団体から助成事業の採択を受け、より競技性の高い「ジュニア発掘」にも力を入れると言う。

今夏にデフビーチバレーの世界選手権大会、そして来年にはデフリンピック。競技人口は少ないとはいえ、いや、少ないからこそ、次世代の才能発掘も普及に繋がる重要な活動の1つだ。

デフリンピック含め競技の認知度の低さ、競技者の環境づくり、健常者・障がい者の相互理解、ろう者の指導者養成…課題は山積みだが、だからこそやりがいがあると牛尾さんは語る。

「正直、チーム監督も、協会運営も簡単なことではありませんし、そんなに簡単になれるものではないと思います。このような機会をいただけて、チャレンジ出来ることは感謝しかありません。選手が自分を律し世界と戦うためにチャレンジしているように、僕も日本のデフビーチバレーボールが、強く、そして皆さんに愛される存在になれるようチャレンジしていきたい。デフリンピックやデフスポーツにはそれを実現できる可能性が充分あると信じています。僕に頂いたチャンスだと思い精一杯取り組んでいきます」。

「健常者のトップアスリートと同じ競技レベルで戦えるようになってほしいです」

「障がいを言い訳に甘えている人は競技の上(トップ)に行けないと思うんです」。

  

リモートの中90分超のインタビューに真摯に応じてくれた牛尾さん。一聴すると厳しく聞こえる言葉だが、すべてに愛がこもっていた。ビーチバレー、そして聴覚障がいという『個性』を持った選手たちへの愛だった。

*¹:「国内外一般社会でのパラリンピックに関する認知と関心」調査結果報告2014年11月(「パラリンピックに関する認知と関心」調査結果報告書 日本財団パラリンピック研究会より)

<取材・文>原田咲子(Sakiko Harada) 大阪大学外国語学部アラビア語専攻卒業。兄の影響から中、高ではソフトボール部に所属、大学からフライングディスクをはじめる。ライター、雑誌編集者を目指し2020年上京。現在、一般社団法人MUCHUでフライングディスクのコーチをしながら同法人のアスリート・アーティストの普段見えない姿を表現する「アスリート・アーティスト応援!」コーナーを担当。「主観主義上等」をモットーに、それぞれの人間の経験や個性、それに基づく思考を引き出し、魅力的に語る記事を目指している。